2012.11.18

フリーペーパー『スイマーズ』

『スイマー』第一作刊行にあてて、佐藤・山川の対談。

佐藤芙有(以降F)初の合同文芸誌『スイマー』おつかれさまでした。

山川夜高(以降Y)でした! 今日は、美大の油画科という不思議な場所で出会った小説書きが二人、言葉や創作について話し合おうということで。

F こういうとき、よく話されるのが作品のテーマとかかな。作品にテーマってありますか?

Y テーマは……あるとは言いません(笑)。というか私は、作者自身がテーマを規定すると、視野が狭くなるように思います。最近ありがたいことにwebやツイッターで読者の方々から感想を頂くことも多いのですが、その中で実感したのは、読者の数だけ違った感じ方があるということです。ツイッターでは感想を寄せてくれた方を私からもフォローすると、その人が、何が好きでどういう生活をしているのか、そういうことが分かるようになります。その上で自分の作品への感想を見ると、こういう感じ方をする人だからこの登場人物に感情移入するのだな、とか、こういう生活をする人だからこのエピソードに共感してくれたのだな、とか納得することがある。そこから、作品のテーマというのは、読者の個人個人がそれぞれ個人的に感じるものではないかと思うのです。テーマは作者が決めるものではなくて、受け手がそれぞれに見出すもの。もちろん私も自分の作品について思うことはあるけれど、それは別に口にしなくてもいいかな、と。

F ふむ。私は知らない人に作品を見せるのが今回の合同誌がほとんどはじめてなので、読者の側からではなく、自分がどういうことを考えながら書くのか、ということについて話してみようと思います。小説を書くとき、書かれたテキストに浮かび上がってくるのは、私が生きる中で考えたいことかなと思っています。でも、それは生活の中で、自分の言葉で考えることのできない種類のもの、物語という形で語ることを通してしか、考えることのできない問題だと思うのです。見たいのは、表面のざわめきではなく、その奥底、あるいは上空のものという感じです。普段は表面の煩雑さによって掻きけされてしまう、本質のようなものに耳を澄ますということが、物語を書くことによってできる気がしています。日常生活の中で感じるたくさんのモヤモヤは、そこで考えようとせずに全部、捨てていくことにしています。考えようとしても、本当に考えたいことはその場では考えることができないからです。物語を書くとき、その物語のもつ流れによって私の中から浮かび上がり、書かされることが、私の考えたいことであり、そのようなプロセスで抽出されたものは、私という個人を離れていく気がします。私にとって小説の登場人物や場面設定などは、二の次のものといえます。はじめに設定を決めるときは、その時々に気になっている雰囲気や気分、映像的な場面を抱いて膨らませますが、それは甘いお菓子のようなもの、表面的なものです。大切なのは、その物語が立ち上がり始め、その物語自体の運動性に従う中で、半ば自動的に浮かび上がってくる、思考の方なのです。

Y けっこう厳密な話になってきましたね。私は小説を書く上で、小説でしか書けないものを目指したいです。それは漫画化とか映画化とか、安易に他の媒体に翻訳できないものといえるかな。例えばガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、映像化したらギャグになってしまいそうな絶対成立しないような世界ですが、小説だから説得力を持ってきちんと成立していると思います。お馴染みカフカの『変身』では、朝起きたら虫になっていたという言葉の描写だけがこちらに渡され、どのような虫なのか、どのくらいの大きさなのか、それ以前に本当に虫になったのか否か、という想像が受け手の側に委ねられている。視覚情報がなく概念のまま提示されることで、想像力の自由が許される。抽象化されることで、受け手の側への間口が広がり、誰に対しても平等に開かれるのではないかと思う。……それから、既存の現実にあたらしい視点を当てるのが、小説を含む芸術の存在意義なんじゃないかな。小説も、今まで気付かれなかった感情や感覚や概念に新しい視点を当てて読み手に気付かせる、言わば、今までにない「あるあるネタ」を指摘するという感じではないでしょうか。

F それも、一言では言えない「あるある」だね。文脈による流れがあって、はじめて醸し出される空気のようなもの。私たちが生きる現実が、切れ目なく、無数の価値観がからみあった混沌だといえるなら、文学は、現実というものにより近付いて考えうる媒体かもしれないね。

Y それでも、嘘が混じるのだけれどね。

F うん、嘘にならざるを得ないというか。自分の頭から手を通って出てくる時点で、違うものになっていて、出てきたものが人に受けとられる時にも違うものになる。人同士まったく同じものを共有することは不可能なのだろうね。そうしてズレることが、何かを伝えようとする作品の限界でもあり、性質であって、広がりを秘めた可能性でもある。それを引き受けて外に出すのが、つくる、ということだろうな。……人は言葉によって考える。言葉を獲得するということは、その言葉によって構成される考え方の枠組みを頭に組み込むことであり、世界の見方を規定されることともいえる。目に見えないから、気がつかなかったり気にしないことも多いし、身についた考え方は自分のものだと信じ込みやすい。けれども、それは絶対的なものではない。自分が使ったり理解する言葉からすり抜けていくものの存在や、その言葉に自分の思考が縛られているという側面を、いつも忘れずにいたいと思う。自分なりに言葉に誠実に向き合って使いながらも、たくさんの言葉をどんどん捨てていける勇気と自由を持ちたいな。

Y スイマーズとしては、これからも定期的に作品を発表していきたいよね。

F うん、継続することで、深まっていきそうだよね。

Y web上でもお知らせしたいです。私は引き続き自分のwebサイトやツイッターなどでも作品を発信していきます。2011年3月から書きつづけている小説(『これは物語ではない』)も。芙有さんもブログとかやってみたらどうでしょう?

F 苦手で……でも頑張って来年くらいには始めたいです。

Y それでは、また皆様にお会いできるのを楽しみにしています。

F お手に取っていただき、ありがとうございました!

スイマーVol.1 フリーペーパー
第15回文学フリマ(2012.11.18)で頒布したフリーペーパーです。小説のありかたについて、佐藤と山川による対談。
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